磨耗カワイイ、ファンシー鉛筆

ファンシー鉛筆ってなんか、良いよなあと思うのである。

流行りのキャラクターやら

サンリオの可愛いキャラクターやら

単純にきらきらラメラメなのやら、

が印刷された鉛筆。

小学生のときに主に使っていて、

なんとなくお気に入りとかあったなあ。

芯の硬度(BやHBなど)は、

そのお気に入りさに一切影響していなかったように

思われる。

筆記具好きが一周まわって、

いま、十数年ぶりに鉛筆を普段使いにしています。

文具好きが一周まわって、って、いけすかないですね。

いや、なんか、デザインと機能性と自分の用途へのフィッティングを

高い次元で兼ね備えが最高のペンとは!?

とか考えることがちょいちょいあって、

各種ボールペンや、水性ローラーボールとか経て、

いろいろ考えすぎて、わーってなって、

鉛筆の、黒鉛を紙になすりつけるシンプルさに落ち着いた、

とかそういうアレです。

この本の影響も大きい。

削る楽しみ。

「考える鉛筆」

ともかく、文具としてなかなか楽しいぞ鉛筆、となったため、

トンボや三菱、ステッドラーなど、各社の鉛筆の違いや、

また硬度と紙との相性をいろいろ試したりが楽しい最近です。

で、まあファンシー鉛筆ですよ。

信頼のおけるメーカーが出してる鉛筆なら

筆記性能は問題ないにも関わらず、

見た目はカワイイって良くないですか。

え、ハイブリッドインクのボールペンとかでも

ファンシーなのあるじゃないか、って?

鉛筆のいいところは、削るところです。

削ると、減る。

短くなっていく。

カワイイが、しかし、消えていく。

おとなは持ち物が多い。

物理的にも精神的にも。

使い続ければ消滅するカワイイは、

おとなでも気楽に持つことができる。

このカワイイと付き合い続けなければいけないのか、

という思いが脳裡によぎった場合、

もうそこに鉛筆の楽しさは盤石ではない。

一時の愛着でもいいんだよ、

という気楽さが良いのだ。

だからファンシー鉛筆は、

消耗品としての、使い捨ての、気楽なカワイイ、なのだ。

……。

という考え方もできるけど、

単純に、

ファンシー鉛筆のこどもっぽい可愛さと

鉛筆という筆記具のなかでもローテクな有り様が、

なんかしっくる来る、っていうそれだけのことかもしれません。

出張コーヒー屋「セトコーヒー」というおこないを

おこなっているのですけど、

セトコーヒー鉛筆とか作りたいな。

ノベルティとして、なんか気安い。

オリジナルボールペンとか、

使わず仕舞いになることが多いじゃあないですかあ。

いや、まあ、ひとによるか。

てか、鉛筆キャップの話ですよ。

いや、ファンシー鉛筆とだいだい然りなので、

書くことないですが。

筆記具という、

機能性ありきでカワイイを内在させる余白の少ないジャンルの

道具において、

鉛筆やその周りはカワイイを息遣せ安いんじゃないかなあ、

というのがあって、

ちょっと注目しています。

半袖の魂

Tシャツってアートじゃないですかあ。

それを着ることで自分の何かを表現することも出来るアイコンでもあるじゃないですかあ。

Tシャツえらぶのすごい楽しい。

着て出かけるのも楽しい。出勤すら楽しい。

やあ、Tの季節が来ましたね。

T着たり、T着ている人を見たり、T褒めたり褒められたり怪訝な顔をしたりされたり、場に出されたTの効果で相手プレイヤーにダイレクトアタックしたりされたり、あるいはTで会話、Tで華さくカンケイもあるし、Tで淹れるコーヒーの味も変わりましょう。

Tとの出会いは、点と点の出会いです。

なんとなくで選ぶことは不可能。

唯一無二の人生で研いだ自己の槍の切っ先と、Tのグラフィティにより発現した指向性のある呪いの出会い。

チョイスに人柄出具合おもしろいですよね。

すれちがう見ず知らずの人でも素敵なTを着ていたら、仲良くなれそうな気がする。

あなたとわたしのリクルートスーツ。

Tを着よう。

しかし、Tを着ないという選択もしよう。

それは、Tを着ないという主張(T)を着ることです。

なので、誰もがTを着ている。

知性ある我々にんげんは、つまり、物心ついた瞬間、魂にTを着ている。

魂に着たTを見せたいなら、そのTと似たTを着よう。

魂に着たTをみだりに見せたくはないが、そのTの秘めた光や香りを表したいなら、生き様で示そう。

人=T

小学校に入学すると、最初に習う公式だ。

それは、内省を計る指針。

人を見ればTが視え、Tを見れば人が透ける。

成長とともに、Tを着替える。着なくなるTが心の部屋の隅に積み上がる。

ときどき、その布の山から一枚を手にとって広げてみると、なんかまた着てもいいかもな、と思えたりもする。着たら案外しっくりくる。

背伸びした時期もあったが、いまは謙虚になった自分もいる……と、着用した古いTを見下ろして思うだろう。

お気に入りも、着なくなったものも、自分で選んだTだ。誇りを持とうじゃないか!

……。

はい、まあ、要約すると、

今日着てたTシャツ褒められて嬉しかったよ^^v

ということを伝えたいのだ。

ちょっとの違いで大違い

ロードバイク(主に自転車の長距離レース用自転車)のコンポーネント(変速機、ブレーキ、ギヤなどの駆動パーツ群)にはランクがあって、例えばSHIMANOの場合だと下から《SORA》《Tiagra》《105》《ULTEGRA》《DURA-ACE》の5ランクのコンポーネントがあって、何が違うかというと、重さ(軽いほど良い)だったり耐久性だったり駆動精度だったりするようですが、ロードバイク初心者はもとより乗りなれた人でもその違いがすぐわかる…というわけじゃなかったりするようで、そもそも下位のSORAからして、ショッピングしたり子どもを乗せたりとかじゃあない、走ることそのものを目的としたロードバイクという車種のコンポーネントですので、充分に高性能なわけでまあ快適に走ることが出来るのでしょうけれど、最上位のDURA-ACEと値段を比べると例えばチェーンの値段を手元の資料で調べたら3倍近く違っていて、まーそりゃあそれぞれ、一般のひとがレジャー的に乗る用とロードレース世界一を決めるツールドフランスやらで勝負できるレベルの選手用ってことなのですから3倍の違いはむしろ大きな差ではないのかもしれませんが(ちなみにパーツを含めた自転車全体の値段だと入門用のSORO搭載車は数万、DURA-ACE搭載のプロ仕様車だと100万超します)いったい何がそんなに違うのか、重さったってコンポーネント全体で数百グラム程度のちがいのはず(本職さんに怒られそうですが)しかも5ランクに細分化されている、その意味は? 思うにそれは10km走っただけではわからない、ペダルのひと踏みごとにクランクが回りチェーンを引っ張りギヤを駆動させタイヤを転がし推進する過程で、人間が自転車に加える力が推進力に変化するまでの全ての工程で、その連続の中で、知覚し得ない微細な負荷が全パーツの間を伝播しているはずで、コンポーネントの違いはきっと数千km、数万km走った先で大きな差となって表れる、のだと思いますそれは速さか距離か時間か人間の感情や疲労度へか、その全てか、上位コンポーネントの意義はここにあると思います、プロのツアーレースは一日百数十kmを長ければ20日を超える期間連日走り続けるわけで、パーツ性能の違いは普通のひとには微細な差異の連続すぎて全くわからなくてもプロにはひと固まりの違和感やら疲労度やらとなって知覚されるはずで、良いものの良いものたる所以はハードに、又は長く使わないとわからない、という場合が多分にあろうと思うわけで、いやまあ単純に合わない靴で出掛けると帰るころにはくったくたになるぞ! というと共感しやすいでしょうか、良いものはたいてい高価だけれど、それが道具なら、使い続けるうち、同じ用途でも安価なものとは使うたびに感じるストレスが違っていて、なんだか日々がすこしだけたのしかったりして何年か先の利益になっていたりするやもしれなくて、コストの低い選択をするよりも高価でも性能を選ぶことは結果的な収支は後者のほうが高くなるのではないかということだったり、そういやあ、家庭用にはけっこう高価な1万円のドリップポットで淹れる珈琲でセトコーヒーを知ってくれるひとはずいぶん増えたなあということだったり、いやいやとにかく、長く使う可能性が高い道具は値段できめちゃあだめだぜ、という話ですよ、使い勝手だけじゃなく使うときのストレス度合いやらデザインによる高揚感だとかで、使えば使うほどコストは際限なく希釈されそれを使用して得られる価値は上昇してゆく、かもしれませんねぇーーほぼ日手帳べんりっ!