自転車の前カゴが壊れかけてて、いま応急処置して乗ってます

それと業務用のウォーターピッチャーが熱い。

もうめちゃめちゃどこの飲食店にもあるプラスチックの容量2Lくらいの、寸胴のあれなんですけど、週末は戦場になるショッピングモールのカフェでめっちゃハードに使ってるのですけれど、よー考えたら割れたことないぞ。

プラスチックじゃないのか、何で出来ているんだ。

あと、底が数ミリだけ高台になってて、ステンレスの作業台に触れて中の液体の温度に影響が出るのを防ぐためだと思うのですけど、高台部分は裏返せば凹形状になってるので、洗う時に流水を跳ね上げてしまい洗い場周辺を汚してしまいやすいと思うじゃないですかあ、でも違うんですよピッチャー底部を円形に沿う高台部分の一部に切れ込みがあるのですよ、これのおかげでここをすすぐとき切れ込みから水がにげるので跳ねないのですよ、業務用の道具すげーていうことなのですけど、その機能的デザインのもつポテンシャルを引き出しきるシチュエーションて日常でも仕事でもそうそうなかったりするような気もするので、皆さまの職場のなんの変哲もないけど当たり前にこの形してるよなあという道具は実はすごい技を隠し持っているかもしれないわけで、そういう目で道具屋…というかホームセンターやらのキッチン雑貨コーナーみると、おしゃれなのも派手なのもしゅっとしてるのもぼてっとしてるのも、全て輝いてみえやしないか、ぼくはします、最近きになるのは珈琲豆を「保存」するためじゃなくカウンターで頻繁に「出し入れ」するのに適した容れ物です、出し入れというか開け閉めでしょうか、よくあるのは缶ですね、クリップもパッキンもないですがフタと本体の径のジャストフィット加減のみである程度のレベルでの気密性を保ちつつ片手でも開け閉めしやすいので、缶最強説がぶちあがらんばかりですが、アクリルの蓋にパッキンが付いたタイプもなかなか使いやすいですね閉めるときは上から押さえるだけ開けるときもフタの片側だけに上方向のちからを加えるようにすると簡単ですし、いやいや密閉性はこの際よいのですよ、どのみち開け閉めするので、めっちゃ空気はいるので、大事なのはフタがしてあること、異物混入を防げること、お客さんんからみて衛生的であること、でしょうよ、そうなると容れ物と同じサイズのフタをぽんと置いておくだけでも良いかもしれませんな、また「保存」したいときは保存ようの容れ物に移して、開け閉めの便を顧なくともよいのなら袋タイプのジップロックでも良くかさばりませんね、いやあ出張カフェのときに使いたいなーというあれなのですよ、保存用とは別に臨戦態勢スタンバイ完了グリーンシグナル回転な容れ物があれば便利だなーと思っていろいろ探していたらまーいろんな種類があって、ひとつの用途にこんなにバラエティに富んだアイデアやら形状やらスタイルがあるのだなーとか思っててそれでよー考えたらなんだ道具って何でもそうだよなあとなって、よーみたらバイト先のウォーターピッチャーもいい仕事していやがるなあとか思って、道具がその用途とデザインのちからを最大限発揮して働いている姿は美しいなあと、道具がその用途を最大限発揮できるよう手入れされていることは尊いなあと言いたいのですよつまり自転車のカゴ壊れたまま乗っててごめん><

分身さん行ってらっしゃい

だれかが書いた文章を読むことって、

一時的にそのだれかに成り変わることじゃないか。

ある特定の作家さんの小説を

集中的に読んでいるとき、

小説を読んでいない時のじぶんの思考が

小説の文体になってしまうことって

わりとあるあるだと思う。

そりゃそうだと思う。

小説を読んでいるときって、

集中する。没入する。感情移入する。

そしてそこにある世界の内側から想像する。

だから小説を読んでいないときはある意味で、

そこにある世界の内側から

われわれの生きる現実の世界を想像している

状態になっているのではないか。

こっちに居て向こう側を想像しているんじゃなく、

向こう側からこっちを想像している状態。

小説で例えましたけど、

ある程度パワーのある文章って

それが論文であっても批評であっても

ツイートであってもブログであっても、

読者を引き込んでしまうと思う。

執筆者の意志や思想に

自分のあたまが塗り替えられてしまうと思う。

書かれている内容の問題ではない。

書かれている内容を、

読者として理解するのではない。

読者はそれを読んでいるとき、

いつのまにかそれが自分の考えたことだと

錯覚する。

自分が執筆者になっている。

自分が体験したことだと信じている。

別の自分になっている。

のではないでしょうか。

でもきっと、文章を読む楽しみって、

そういう部分なのじゃないかなあ。

とも思う。

別の人間になれる。

別の世界に行ける。

別の見方ができる。

そういう快感があるのだと思う。

質の良い文章を

大量にあたまに流しこむ。

すると、

自分の一部がたしかにその文章の執筆者や

その文章そのものになる感覚がある。

まあ要は、

素晴らしい文章にはつよい影響を受ける、

というそれだけの話なのだけど、

それが、自分を塗り替える行為だという

言い方をすると愉快だなあと。

で、

思い出したけど、

まだブログが無かったころ。

ネットで文章書くってなると

だいたい自主ホームページを立ち上げないと

いけなかったころ。

俗にテキストサイトという、

文章主体のホームページが跳梁跋扈していた。

ネットは広大で

ぼくが見てたものは全体の何万分の1なのかは

わからないけど、

その中で「俺とパンダ」というサイトは

当時あったテキストサイトの中で最高峰なのではないかと思う。

日常をテーマに、独特の切り口で書かれた文章は、

何度読んでも声だして笑った。

というか文体がかなり独創的だった。

思春期のころ、めちゃめちゃ読んでたので、

現在のぼくの一部は間違いなく

「俺とパンダ」で出来ている。

ぼくの目線も考え方も文章も、

「俺とパンダ」で出来ている。

と言っても過言ではない。

文章を読むと、

頭のなかに執筆者の分身が生まれる。

こう、まあ、つまり、

ひとの目に触れる文章を書くという行為は

めちゃめちゃクリエイティブなのではないかということだ。

いや、文章そのものがクリエイティブという意味ではなく、

読者の頭の中に別の何かを生み出し、

そのまま居座らせてしまえるという意味で。

居座った何か、例えば執筆者の分身は、

読者のもともとの意識を浸蝕し、

執筆者の意識に近い別のものに

変えてしまうかも知れない。

どれくらい執筆者に近いかはわからないが。

もしかしたら限りなく近いかもしれない。

例えば、

ぼくのブログの文章も、

そういうパワーがあったとして、

もしも全てのエントリを読んでくれた人がいたとして、

そんなあなたは、

ぼくですか?

ひまなときはひまなものである

親友と呼べる相手って

そう多くない。

というかそういう相手が

ひとりもいないという場合も

けっこうあると思う。

定義は難しいけど、

少なくとも出会ってから経過した

時間は関係ないと思う。

ぼくは幸せなことに親友と呼べる相手が

ひとりいて、

しかし彼とはまだ出会って1年半だ。

おかしな出会い方だった。

接点は全くなかった。

ぼくがCD屋うろうろしてたときに

声かけてきたひとがいて

そのひとが誘ってくれたホームパーティに

来てたのだその彼は。

メンツのほとんどが初対面のパーティだったので、

ぼくは自己紹介代わりに

自宅でつくったコーヒーを水筒に入れて

持って行って、そこで振る舞った。

彼はそのコーヒーがいたく気に行ったようで、

それがきっかけで意気投合した。

彼は語学が堪能で、

たしか日常会話レベルなら

5ヶ国語喋れたはずだ。

旅が好きで、

毎年1~2ヶ月滞在するという

オランダの話をよくしてくれた。

ホームステイ先の家族や町の人たちとの

ふれあいの話を聴いていると、

彼にとってそこは第二の故郷なのだということが

理解できた。

同じくらいドイツも好きなようである。

フリーターをしながら生活している今も

ドイツ語の勉強はつづけていた。

そして彼は念願だった

ドイツの国家機関が運営する

語学教室への入学を果たした。

これがもう

とんでもなく狭き門らしいのだ。

入学手続きからして全てドイツ語だし、

様々な試験をパスしなくてはならない。

入学したらしたで、

課題の難易度や量が半端ではないらしい。

授業を受け続けるだけでも、

学力だけでなく、相当な根気と体力を要する。

睡眠時間は限りなく少ない。

実際、脱落していく者は多かったようだ。

でも彼は授業を受け続け、

課題もこなしていった。

体力的にも精神的にも

限界ぎりぎりのところを

さまよい続けていたらしいが、

不思議とイヤになることはなかったらしい。

どんなにしんどくても

授業のある日は楽しくて

足取りが軽かったと。

それは教師があきれるほどだったという。

ぼくはこの話を聴いて、

彼のことを羨ましく思った。

しんどい様子は伝わってくる。

ぼくならとっくにギブアップしてるような

凄まじいスケジュールを

彼はこなし続けているのだ。

でもそれでも楽しいという彼はたぶん、

自分のやりたいことと

自分に向いてることが合致している。

それが、

それを見つけることができたことが、

それを自覚できていることが、

羨ましかった。

自覚して、

体力と精神力をすり減らしながら、

全力でぶつかれるものに

全力でぶつかれていることが

羨ましかった。

そういうものは

誰にでもあるわけじゃない。

やりたいことがあっても、

自分がそれに向いてないこともある。

機会にずっと恵まれないこともある。

条件がそろっても

やる気が持続しないことだってある。

そのときぼくは、

どこに向かっていけばいいか、

何をすればいいか、

まったくわからない状況だった。

彼のことは本当に尊敬していた。

自分の向かうべき方向を知っていたし、

実践もしていた。

旅をする彼の生き方にも強い憧れを抱いた。

しかし、それなのに、

そんな彼が言うのだ。

ぼくのことを尊敬していると。

理由を聴いてもぴんと来なかった。

考えてみた。

ぼくのどこに

尊敬できる要素があるだろう。

あれかなあ、

何も考えてないところかなあ。

ともかく彼はぼくを尊敬していると言い、

親友だと言ってくれた。

嬉しかったのは確かだ。

ところで彼とはここ4ヶ月ほど

会っていない。

一時期はヒマさえあれば遊んでいたのに。

いまは勉強がものすごく忙しいようだ。

ここ4ヶ月でぼくは、

ようやく打ちこめることを見つけた。

そしてそれは今も続けることができている。

久しぶりに会いたいなあと思った。

とくに何を話すでもないんだけど。

彼がいつもどこで勉強しているかは

知っていたので、

今日そこへ行ってみた。

驚かせたかったので連絡はなしだ。

しかし、彼はいなかった。

入れ違いだったようだ。

なんとなく思ったのは、

まだタイミングじゃなかったのかも知れない、

ということ。

お互い向かうべき方向がわかって、

突き進んでいる状態である。

まだもう少し走り続けて、

落ちつける時間ができたら、

コーヒーでも飲みながら

語り明かそうじゃないか。

とか書くとドラマチックだけど要は

ぼくのほうはこんなこと長々と書けるくらい

ひまだから遊んで!><

ということである。