ただのこういう話

「おはようございます」
 辰夫はあいさつをした。しかし結果的に皆の耳に響くのは、
《パァァ……》
 という声とも音ともつかないものだった。太陽の光の音というものが存在したとすれば、この辰夫の発した音が近いものであっただろう。
 辰夫は有能だった。有能で、要領がよく、適切な仕事のみを行い、無駄な行動は一切しなかった。無駄を省く。これは辰夫のアイデンティティであり、それができたときに彼が最も満ち足りた気分になれるのであった。
 会社の営業フロアに存在する、ただのぴかぴかした球体が、辰夫だ。比喩でも何でもなく、いわゆる、あの、球体である。白くてまんまるで、つややかで、それ自体は光を発していないのに、神々しさから見る者は目を細めてしまう、そういうぴかぴかした球体が、今の辰夫だった。顔も何もないのに、それでも辰夫とわかるのは、彼が彼の会社に出勤し、彼の部署の彼のデスクで今も仕事をしているからであった。
 彼は無駄を省きすぎたのだった。球=最も無駄のない形。変化は徐々に、そして気が付いたらこうなっていた。
《パァァァァァ…………》
 ちょっと○○株式会社に進行中の企画の打ち合わせに行ってきます!
《パァァァ……》
 あ、そうそう、
《パァァァァァ…………》
 今日の夜食当番ぼくでしたね。何かリクエストはありますか?
 フロアから退出しかけて振り返った(ように見える)球体は、とてもきれいな、どんなに増幅しても不協和音を生じないコーラスを響かせる。フロアの皆はリラックスした。
《パァァァァァ…………》
 …………。……リクエストないですか? じゃあ適当に買ってきますね? じゃ、行ってきます!
 ぴかぴかした辰夫が退出する。

「失礼します。部長」
「なんだね、課長」
「彼をクビにしないのですか?」
「辰夫くんを辞めさせることはわたしにはできないよ」
「なぜです?」
「たたく肩が、ない」