カニは殻をわって食べるのがいい

小説を読むのは、
書かれている文章を設計図とし、
自分の記憶や経験の中にあるものを材料に使って、
物語をあたまの中に構築していくことだと
思うんですが、
そうすると、
日記って、
自分ただひとりだけにとって
最高の小説だと思います。
ふつう小説を読むときに動員する
自分の記憶とかって、
当然他人の書いた文章にあてはめようとするわけですから、
いわば代用品。
でも自分の日記の場合は、
代用品ではなくて本物なわけですもんね。
カニかまぼこじゃなくてカニなわけです。

以前やってた仕事がけっこうしんどかったんですけど、
そのころの日記を読み返したら、
すっかり忘れていた、そのころの、
逃げ出したくてしかたない閉塞感とか
常に何かに追い立てられる焦燥感とかそういう、
当時のできごとだけじゃなくて
気分まで思い出して、
まるでそのころにもどったみたいな
気持ちになりました。
いまは気楽なバイト生活で、
そんな気分すっかりわすれていたのに。
いまは本当に気楽です。バイトは楽しい。
ひとり暮らしで2年前に出てきた土地にも友達ができて、
なにかあったら打ち明けられる。
そういう現状の自分に、
きつかった当時の自分を
日記を読み返すことでダウンロードしたら、
そのときはただがむしゃらで自覚はなかったけど
かなりやばい精神状態だったとはじめて理解しました。
前の仕事っていうのは、新卒で入社した会社で、
平均15時間労働の営業職だったんですけど、
それまで毎日つけてた日記も
入社当初からだんだん仕事が増えてくるにつけ、
書かない日がでてきたり、
書いても1行だけになったりしてました。
それから全く書かない期間が続きはじめて、
そのあと、1日1ページの日記帳の空白と空白の間に、
ふとこういうことが書いてありました。

「就職して4ヶ月、自分が埋没していく危機感を覚えた。
業務をこなしながら会社に自分をあわせて、個性をはがしていく感じ。個性を生かしたくてはじめた仕事なのにそれが全然できていない。オフには芸術をしていたいけどできない。
そして、だんだんそのどちらにも慣れていって考えることもしなくなっていってる。
今は仕事をちゃんとこなせてない不安、もっと勉強しないと会社に見放されるかもという危機感。
なんかちょっとずつ、不安の内容が、自分の個性とかアイデンティティより、会社に属してる自分っていうのにかたよってきてる気がする。
考えようによっては、だんだん社会人としての自覚が出てきたといえなくもないけど、それはいいことなんだろうか。
これまでの自分とかアイデンティティとか、『これがぼくだ』っていうような主張する気持ちも消えていっているのがこわい。大丈夫かな。」

それからまたしばらく空白。
会社を辞める時も強く感じましたけど、
就職したおかげで、
それまで知らなかったり知ることができなかった
感情を理解できました。
鬱屈とした感情だけじゃなく、そこからくる、
同じ境遇の人に対する強い連帯感とか、
人に対する本心からの感謝とかも。
(その会社いい人ばっかりでしたし、
誕生月にすき焼きカラオケパーティあったりして、
いいとこではあった)
いまフリーターで、生活的に問題もなく、
心身ともに充実してるけど、
感情の起伏の幅は比較的平たんです。
まだ金銭的社会的な意味での就職する価値とか必要性は
いまいち実感できないんですけど、
そういう人間的な意味では、
就職っていう責任社会に身を置くのって
大事だと思いました。

いや、そうじゃなくて、
読み返すとおもしろいから
つけてみようぜ! 日記!
ということを言いたい。