だといい話

ロードバイクを手に入れて、
自分の肉体的なエネルギーの出力の手段は
得ることができたわけですけど、
(まだ買って2日目ですが)
では、何かに感動して起こる衝動とかの、
精神的なエネルギーの出力の手段は
どうするかというと、
ぼくは小説をそのツールにしようと考えていて、
ちびちび書いています。

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創作の肝は感情にあると、前に書きましたけど、
それはつまり、
文章でも絵でも映像でも音楽でも、
表現手段の違いはあれど、
受け手の五感のうちどの器官から入ってきても、
その作品の印象を決めるのは、
それに対してどういう感情を抱いたかということに
結実されるということ。
ぼくがある観光名所に行ったとき、
そこには間違いなく初めて行ったのに、
前にも一度来たことがある感覚に陥りました。
デジャビュとは明らかに違う感覚でしたし、
目でみる風景は初めて見るものだとわかったのですが、
どうもはじめて来た気がしない。
なぜそんな既視感を抱いたか、後でわかりました。
ぼくは以前その観光地を舞台にした小説を読んでいたのでした。
その小説の文章による描写から抱いたその場所に対する感情と、
実際にそこに訪れて自分の目で見て抱いた感情がリンクして、
前にも来た気がしたのでした。
その体験があってから、
実際に見て感じて、抱いた感情と、
文章から想像した感情と、
情報量や形式は全然違いますけど、
そのふたつの感情が同じなら、
それらは同じだけの価値を持つのだと考えるようになりました。
だから例えば、
船場カリーを食べたときの幸せを
音楽で表現することも、
ミッシェルガンエレファントのライブの熱狂を漫画で表現することも、
エヴァンゲリオン:破を見たときの興奮を
文章で表現することも、可能なはずです。
それもオリジナルと同レベルの感動を伴わせて。
あとは作者の表現力と受け手の感受性の問題です。
だから文章で表現をしたいなと思うぼくは、
絵が苦手だし音楽も作れないけど、
崖の上のポニョと同等かそれ以上の感動を人に与えることが、
究極的には可能なわけです。
だといいな。
だといいなという話です。
というか「究極的には」っていう仮定、無意味すぎる。