ラスト、グラトニー、自転車、エンヴィー、……、……

服屋の店員となんとなく話がはずみ、

自転車談議に花が咲いた。

ぼくはロードバイクに乗っているが、

その店員さんはクロスバイクで毎日通勤してるらしい。

クロスバイクというのは

ロードバイクとマウンテンバイクの性質を

あわせもつ、街乗り用スポーツバイク。

話を聞くとぼくのほうが高価な

自転車を持ってるみたいだけど、

通勤に乗ってるのなら相手のほうが

より自転車を活用できてる。

もとより値段の問題ではないけど、

まあやっぱり乗り物は乗ってなんぼだよなあと思う。

ぼくはせっかくそこそこいいロード持ってるのに、

たまにしか乗らないもんなあ。もったいない。

とぼくが考えたかというと

全然そんなことはなく、

通勤で毎日乗ってる?

それはスポーツ自転車乗りとしてまだまだ青くさいなあ。

と思った。

ママチャリはまあ、

楽しい楽しくないにかかわらず日々の生活に

必要だからみんな毎日乗っているのだと思う。

でもスポーツ自転車は違うはず。

楽しいから、好きだから、趣味として所有しているものだ。

つまり本格的なスポーツ自転車は

自分で求めて入手したものであれば、

もうその時点で所有者は自転車に乗っているのだ。

自転車乗り、サイクリスト、ローディー、

いろいろ呼び方はあるけど、

それらの定義は必ずしも自転車に乗っていることが

前提にはならない。

自転車に乗らずに散歩してても自転車乗りだし、

家でごろごろしててもサイクリストだ。

今のぼくのようにこうして

ブログを書いてるこの作業は

つまり自転車のペダルを漕いでいるということになる。

自転車が好きな者がサイクリストであるためには

自転車を所有している必要すらない。

この世に自転車が生まれてこなくても

サイクリストは存在し、

彼の中には存在していないはずの自転車がちゃんとあるのだ。

自転車が先かサイクリストが先か。

画家が自らの激情をキャンバスにぶつけ、

現実にはありえない色の空を描いたり

どの文献にものっていない魔物を描いたりするように、

自転車はサイクリストの精神の発露した形にすぎない。

それがたまたま道具として便利だっただけのことなのだ。

ぼくはまだ自分のロードバイクを

乗り物としてしか見ることができていない。

でも信じている。

かつて人類が「自転車」という欲望を具現化したように、

逆に既にある自転車を自分の精神として取り込むことができると。

いつかそれが実現したときこそぼくは、

本当のサイクリストとして

いま述べたような話をこの服屋の店員さんに

説いてあげるのだ。

ヘンな人と思われて

服の値段さげてくれるかもしれないもんね。