喫茶ダブルドラゴン 第4話
年代物のファブリックをモダンなセンスで配置した直方体の空間。真空管アンプから流れるジャズが、使いこまれた木の調度品に染み込んでいく。
町外れにあるその小さな喫茶店は「星屑珈琲店」という。
「お待たせしました」
白いシャツを着た若い男性がテーブルにかちゃりと珈琲を置いた。
立ち上る湯気が芳しい。
ひとくち。
甘くて苦い。そして濃い。飲みこんだあともくちに旨みが残る。喉の奥からまだ香りがする。心がほどけていく。
至高の珈琲だった。
ふう……と吐息をもらして彼が問う。
「なあタイガー、どう思うよ」
「どうちゅうたかてなあ」
タイガーと呼ばれたのは虎之助という小学4年生。彼の前にも珈琲が置かれている。
「俺のダブドラブレンドも負けてないと思うんだが、多分」
やや自信なさげに言うのは、竜田隆一。喫茶ダブルドラゴンのマスターだ。
「おっちゃんとこのもここのんも同じや。苦ぁてよう飲まんわ」
「そうか同じか。んじゃ引き分けか、しゃーねーな」
「ええんかいなそれで」
「むう……」唸る。「良かねーな」それからカウンターの白いシャツの男性――ここの店主に向かって、「よぉ、おにいさん」
それから店主と隆一は珈琲談義を始めた。ドリッパーがどうの、ブレンドがどうの、温度だの、熟成だの――
ふたりのやりとりを外国語のように聞きながら、小学4年生のタイガーは至高の珈琲にミルクと砂糖をたっぷり入れた。
(なんでわしがおっちゃんの敵情視察に付き合わないかんねん。コイツ友だち居らんのかいな)
ちりん――
ドアに付けられた鈴が鳴る。
入って来たのは眼鏡をかけた女の子だった。
タイガーと彼女の目が合って、ふたりして、
「あ」
と言った。
「トラじゃない」
「直美やん」
彼女はクラスメイトだった。
「ダージリンのセカンドフラッシュをください」席に着いて彼女が注文する。それから振り向き、「トラ、あんた珈琲なんて飲めるんだ」
「ま、まーな。そこらのがきんちょと一緒にすなよ」
「よく言うぜ」と隆一。
「やかまし!」
「ま、どうでもいいんだけど」
言って直美は、鞄から取り出した本に視線を移してしまう。
「……ちぇっ」
直美は地味な生徒だった。休み時間でもいつも本を読んでいる。タイガーとは正反対のタイプで、ほとんど話す機会もなく、気に留めることもなかった。
しかし今はそうではなかった。タイガーは、この店で読書する直美の姿を見てサマになってるな、と思った。
朽木を加工したフローリング、クッションのリベットにマメな手入れが伺える食堂椅子、使いこまれて角の取れたブナのテーブル、低音が響くジャズ。そしてときおり紅茶を口に運びながら本を読む彼女。
タイガーはなんだか急に、自分がそこらのがきんちょのように思えた。
それで、
「おっちゃん、ちょっともらうで」
と隆一のブラック珈琲をひとくち飲んだ。
(うわ、苦っ)
だが我慢して平気な顔をする。
「シャツのにいちゃん、これイケてるやん」
「ありがとうございます」
「へっへっへ、おめぇもわかってきたじゃねえか」
「ふん、まーな」
言いながら、ちらと直美の見るが、彼女は読書に集中していた。
「……」
タイガーと直美。ふたりの様子を見て隆一は店主に、
「おにいさん、珈琲のおかわり、少し濃いめで頼めるかい? それとミルクと砂糖も」
と注文した。
「かしこまりました」
「お待たせしました」
珈琲が出される。
「おい、タイガー、これやるよ」
タイガーはぎょっとする。もう飲みたくないのだが。
「お、おう、サンキュー」
ちらと直美を見て、意地でそう言う。覚悟を決めてブラックのまま飲むことにする。が――
隆一がミルクと砂糖とたっぷり入れてしまった。
「おめぇにゃこの方がいいだろ」
「何してんねん」
言いながらタイガーは内心ほっとした。
そしてその珈琲をひとくち飲んだ。
(うおっ、これは……!)
タイガーの目がぱっと見開かれる。
「なっ、うめぇだろ?」と隆一。「しっかり抽出された珈琲は何入れてもちゃあんと珈琲の味が残るんだよ。むしろ際立つ。でも飲みやすいだろ? タイガーよ、無理にブラックで飲むこたぁねーんだ。背伸びしたって大人になれるわけじゃねぇしよ」
しかしタイガーは、
(苦い苦い! 苦いわぁー!)
と、隆一の話を全然聞いていなかった。
(濃いめ言うてたなコイツ。何入れても苦いやん何のつもりやねん。くそ。ええわもうあほらし。ガキのわいが大人のふりしても仕方あらへんわ。わいはわいや、いつも通りでええわ)
なんとか苦い汁を嚥下してタイガーは席を立った。それから直美に、
「なあ、本読むのおもろいんか?」
「なによ。邪魔しないで」視線も上げずに応じる。
「いや、おもろいんやったら、なんや、わいでも読める本教えてくれへんか」
「……」そこで直美はやっと振り向く。「いいわよ。そのかわり……」
「なんや?」
「今度逆上がりのやり方教えてよね」
「ははっ、任せとかんかい!」
ふたりの様子を微笑ましく眺める隆一。
「おめぇはそうでなくっちゃな。なぁ」と店主に向きなおる。「アンタの淹れた珈琲のおかげだぜ。俺のメッセージ、伝わったみたいだ」
と満足げ。
「星屑珈琲店」の店主は、
(そうかなあ?)
と思った。