そこに行きたかったから行った男

 とある大学のラボに、男と、女。

「爆発ってなんだと思う?」

 と男は言った。

「一瞬に大きなエネルギーが生まれること」

 と女は答えた。

 男は手元のスイッチを押した。

 ピンポン、と電子音が鳴る。

「正解」

 男はさっき押したスイッチの隣のスイッチを押した。

 ブー、と電子音が鳴る。

「でも不正解」

「えー」

 女が、ぶーたれる。

「爆発とは。正解は、我慢することだ」

 と男。

「どういう意味でしょうか?」

 と女。

「うん。いいかい」

 男は腕を組んだ。

 女はA5ノートを開きボールペンをノックする。

 ボールペンをノックするとき指ではなくノック部をほっぺにおしつけるやり方をした。

「それいいな」ほっぺがふにってなる感じ。

「は?」

「……解説の前に珈琲を淹れようか」

「じゃ、あたしミルク温めますね」

 ラボに2基あるガスコンロ。男は水をいれたコーヒー用ポットを強火にかけて、珈琲豆と器具を準備する。女は手鍋に入れたミルクを弱火にかけて、膜がはらないように見張る。

 男は豆を測り、手挽きミルに投入してハンドルをぐるぐる回す。

 がりごりがりごりがりごり……

 男は豆を挽き終わると、戸棚から珈琲を淹れる道具を取り出してセッティングをはじめる。

 女は手鍋をときどきゆすりながらミルクが適温になるのを待っている。

 しゅんしゅん、かたかた――

「先生、沸きました」

「うん」

 男はポットをコンロから外し、少し間を置いてから、コーヒーのドリップを始めた。星条旗デザインの派手なジャケットのポケットに片手をつっこみながらポットから挽き豆にお湯を注ぐ。

「よし……っと」

 言って女はコンロの火を止める。男が取り出しておいた2客のカップに温めたミルクを少量ずつ入れる。

 ほどなく男が珈琲のドリップを終えて、サーバーから淹れたての珈琲をカップに注いだ。カフェオレができた。

 席にもどって、ひとくち。

「ふぅ……」

「はぁ……」

「落ちついた。きみ、私はどうしてこんな格好をしているのだね」

 男は自分の服装を見下ろす。星条旗デザインのジャケット、星条旗デザインのハット、真っ赤なエナメルのクツ、カイゼル付けひげ。

「倉庫と化した多目的教室を掃除していたら出てきたと言って、うれしそうに着込んでたじゃありませんか」

「どういうことなのだ」

「存じ上げません。カフェオレおいしいです」

「おいしいか……それは良かった」

「はい」

「うむ」

「で……」

 女はカップを机に置き、A5ノートとボールペンを持つ。

「さっきの解説を聞かせてください」

「よし。よく聴くんだ」

「はい」

 女はノートを広げ、ボールペンをほっぺでノックする。ふにっ。

「それいいな」

「はい?……ああ、このペンですか? アルスターっていうんですよ。ドイツの――」

「あ、いや、じゃなくてだな」

「は? あ、ノートですか?」

「違くて、ボールペンをほっぺでノックするのがだよ」

「ああ」

「若いうちだけだよなあ……」

「へ?」

「皮膚がすぐ復元するの、若いうちだけだよなあと思って」

 男は人差し指で女のほっぺをぶすっと突いた。

「ふおっ!」

 女はとっさに振り払った。

「何するんです!」

「ほらもうもどってる」

「セクハラですよ」

 女はもう平静にもどって冷たく言う。

「えっ……」

 反対に男がひどく驚いた。

「セクハラ」

 もう一度言う女。

「それは私のせりふであると、主張したい」

 男は憮然とした表情。

「なんでですか?」

「なんで? ……おっ、クイズだな」

「いや」

「何故セクハラと言われた私が、セクハラされたのは私の方だと思ったでしょーか!」

 男のテンションが急に上がったので、女は少し、きもちわるいな、と思った。

「いや……」

 女は嘆息してペンとノートを机に置いてかわりにカップを手に取りカフェオレをひとくち。

 それから机に置く。

「わっ」

 と男が驚く。

 女が不意に男の顔に向かって両手を伸ばしたのだ。

「じっとしてて」

 男は思わず目をつむった。

「……あれ」

 男は自分の頭が軽くなったのを感じた。

 ピコン、と電子音が鳴り帽子のランプが光ってまわる。

 しかし光っているのは男の頭上ではなく女の頭上だった。

「あっ、帽子」とられた。

「……」

 女は男をじっと見ている。

「ん?」

「回答しますよ」

「え……あ。えーと、何故セクハラされたのは私の方だと思ったでしょうか。お答えください!」

「男性として意識されてるとわかったから」

 男は手を伸ばしてスイッチを押した。

 ピンポン! と電子音が鳴る。

「正解!」

 と男。

「でも不正解」

 言ったのは女。スイッチを押す。

 ブー、と電子音。

「へ?」

「結婚したら男と女じゃなくなるとお考えですか? あたしはずっと女だし、あなたは男よ」

「…………ごめん」

「日本人ってシャイですね。いえ、先生が特にそうなのかしら」

「いやかい、アンナ」

「ううん」女は首をふる。「少しニューヨークが恋しくなっただけです」

「でもさっきセクハラって言ったのなんで? やっぱりいやなんじゃあ……」

「言ってみただけです。気にしないで、あなた」

 女は男の顎をなでる。

 それを合図と、男はクイズ同好会時代に士気高揚のために買った星条旗ジャケットを脱いだ。ネクタイも緩める。

 女はカップを空けて、星条旗デザインのクイズ・ハットを机に置くと、ブロンドの髪をはらうしぐさをする。それから上着を着てラボを出た。

 残された男は、ぐっと何かが詰まったような気分になった。それは夜再び女に会うまで続いた。

   了