プレイ・オブ・オーガ

友達と遊ぼうってなると、何して遊ぶか思いつきません。
カラオケ、ボウリング、家でゲーム、ショッピング……とかが一般的なとこでしょうか。
テニスとかサッカーとか言う人もいましたけど、人間の心を持ってしまったロボットのように不器用なぼくは気乗りしないので除外、と。
まあ、挙げた遊び、なんか違うと思うんです。もちろん楽しいです。全然OKです。でも、洗練された大人の戯れというか、ハイソサエティ・プレイというか、そういう面があることは否めませんよね。
それらは、小さい子供が自然とやるような遊びの楽しさを体系化し、共通のルールを定め、再構築したような、疑似遊戯です。(遊ぶ機会の少ない男いうことなので話半分で聞いてくださいね)
お金を払ったり、かっこいいとされるメジャーなスポーツをやるということで、「僕らはもう子どもじゃないから、お金や知名度、ルールとかの普遍的要素において認められた遊びしかしないのさっ」と、体面を安定させておいて遊ぶのが、大人のプレイ・スタイル。
何かを賭けないとはしゃげない、不純な遊戯。
例えば、お金を賭けてトランプをするようになったり、「かっこいい俺」を獲得するため(無意識)にフットサルに興じてみたり。(なんかトゲのある言い方になってますが他意はないです…)
そういうのもいいでしょう。そのほうが競争心が芽生えて燃えますし。
でも、そういうのないと燃えれませんかねえ。
これにはぼくは、そういうのないと燃えれないと思います。
ひと昔前ならビー玉しかりベーゴマしかり、勝てば奪えます。
いまだって、ゲームしかりスポーツしかり、自分が相手より上手い、優れているぞ! と思える瞬間が楽しい。勝つことこそ喜びであり、楽しみ。
遊びとは比べ合いです。そして楽しさは勝利であり、「ひとより上手くできる」の認識。
できないゲームは楽しいですか? うまく踊れたお遊戯は楽しいでしょうが。
ぼくが言いたいのは、少年期を過ぎた遊びが、上手い下手だけが楽しさの単調なものが多いなあってことなんです。
話はまとまってないですし、まとめる気もありませんが、結論から言うと、鬼ごっこでいいのに! ということなのです。
遊びは、上手い下手、そして想像性があるかないか、という、x軸だけの図表にy軸が加わった状態がいいのでわ? です。
ぼくは、この遊びこうしたらもっと楽しいのになあ、とか、こういうふうにしたらどんな盛り上がり方をするだろう? とか考える子どもでした。
もっとも、気弱なぼくは、従来のルールに則っとることを良しとし安寧に座して動かぬことで培った自らの優位を脅かされんことに腐心するやんちゃで元気な子どもの皮を被った将来の石頭予備軍どもの軍門に下ることを拒む意気もなく、提案できないんですけどね。
まあ、なんか、神戸とか大阪とか、実家とか田舎のいろんなとこ歩いてると、昔よくやった鬼ごっこに照らして、「ここの段差駆け上がるには、コンマ2秒遅れ、一息に飛び下りることもできるぞ」とか「この手すり、飛び越えるには一度上に乗って向こう側に降りる高さだが、調子によっては手すりに乗らずワンアクションで飛び越えられるぞ!」とか「この木、回りこんで隠れたり、周囲でぐるぐる追いかけ合うドッグファイト状態になるのに調度いい太さで白熱するぞ!」とかいろいろ、状況を考える自分が最近いるわけで、まあ、ぼく、はしゃぐタイプではないんですけど、「ほんとはこんなんでも楽しいはずなのになあ」と思います。
小さいころ、段差があれば昇って、高い塀にも昇って、穴があったらくぐって、それだけで楽しかったでしょう。鬼ごっこは体育館でするより、いろんな遊具があって地形や構造物の機微に富む運動場でやったほうが楽しかったでしょう。ぼくは今でも道は歩くより走りたいですし、柵があると棒でテテテテーとやりたいです。でもつまらないことに人目が気になるのでやりません。
鬼ごっこはあらゆる地形、あらゆる建物など建造物の形が、あらゆる駆け引きと幾通りものドラマを生む想像性にあふれる遊び。
ぜひ、やってみてはいかがでしょおか。

余談なうえ持論ですが、子どもは「回転」と「バウンド」が大好きです。
見て下さい、公園で遊ぶ子どもを。顧みてください、売れているゲームを。
あんなによだれを垂らして、なんてみっともないんでしょうね!