喫茶ダブルドラゴン 第2話

 ぱたん…

 ドアベルもならさずに静かに店に入ってきたのは、ジーンズをはいた女性だった。ゆるやかな足取りでフローリングの床をわずかもきしませずに歩いて、カウンター席に座る。
「いらっしゃい。ご注文は何にします?」
 カウンターの中から男が声をかける。
「そうね……マンデリンをもらおうかしら」
「サントスならありますからサントス淹れますね」
「ええ、お願い」
 表情一つ変えずに肯定する女。
 ひかえめな暖色系の照明、天井ファンのモーター音、ローストされたコーヒー豆の香り。ここは《喫茶ダブルドラゴン》。男、竜田隆一はこの店のマスターだ。売上や客層など度外視の、好きな飲み物を出し好きな音楽をかけるエゴに満ちた経営で年中閑古鳥が鳴いているこの店同様に、良くも悪くもひょうひょうとした男だった。
 ブラジル・サントス港から出荷される実質上の最高級豆「サントスNo.2」を電動コーヒーミルで挽き、ハンドドリップでコーヒーをたてながら、隆一は女を一瞥する。
 店に入ってきたとき、ジーンズがまっさきに目に付いた。それは“本物”だった。加工されたものではない、本物の、履かれた歴史が刻まれた、見事なユーズドジーンズだった。それが似合う女。背は低い。年のころは30に届かないくらいだろう。物腰はおとなしそうだが、意志の強そうな目をしていた。
 女が出されたコーヒーにくちをつける。
「良い香りね。それにコクがあるのにさっぱりしてる」
「ありがとうございます。この豆はサントスNo.2というんですがね、2とはいいますが実際には――」
「しっ!」
 知識をひけらかしかけた隆一を女はさえぎった。何か静かにしないといけない空気を出す。
 女はもうひとくち飲んだ。
「うん、おいしい」
「……」
 ひとりで来て、コーヒーを飲んで感想をくちにするのにこちらが何か言うことは許さない。理不尽な女だと隆一は思った。
(この女、“通”か……)
 ダブルドラゴンの主な客層は、近所の散歩のついでに立ち寄るご年配か、タダ飲み目的の子どもくらいなので、隆一は“通”をみたことはないのだが、何となくそう思った。
(マンデリンと銘柄で注文するとこといい、履いてるジーンズといい、きっとそうなんだろうな)
 会話もできないし退屈になった隆一は妄想に遊ぶことにした。
(しかしあの履きこまれた風合い、あれは職業柄か? だとしたら何の職業だろう。ジーンズはもともとアメリカの金鉱山の炭鉱夫が着用するために考案されたそうだが、今日び炭鉱夫なんてのもないし、あれか、牧場か。おそらく自分探しの旅の末にたどりついた牧場で手伝いをさせてもらっているうちに、そこの子どものいない牧場主夫婦に「家族にならないか」とダメもとの説得をされて、それに応じたという流れで今にいたるんだろう。牧場の家族。そこに新しい自分を見出したんだな。だが自分では気づかないものだ。自分を見出したと思ってもそれは結局、居心地がいい場所から離れるのを嫌うただの人間心理にすぎなくて、どうせ決め手はじゃがバターがおいしかったからとかそんなものなんだろう。それに家族に迎えられてからの牧場での暮らしは決して楽じゃないはずだ。それまで手伝い程度だった牧畜の世話とかを本格的に仕込まれるようになって、毎日朝から晩までそれこそ馬車馬のように働くわけだ。牧場の仕事は体力がいるし、牛や羊はデリケートだから常に気を配らないとならない。心労もたまる。あまくない現実にぶちあたってはじめて、自分探しの幻想から目覚めるんだ。でもそのときには、それでもここにいたいと思えるだけの大事なものも見つかっているだろう。きっと泣く。泣かないで。どうしたんだい? 牧場主夫婦の言葉は温かい。ますますここの仕事に精を出すようになるこの女。余裕がでてきたころ、ふと気付く。あれ、ずっと履いてるこのジーンズ、いい感じじゃない? リアルユーズドっていうの? イカスわこれ。街にいこう、これ履いて。きっとクラブの視線を集めるわ、ヴェルファーレが荒れるわ、とこの女は思う。ジーンズはカルチャーだ。同じカルチャーウェアであるTシャツのようにグラフィックがなくても、履く人の人生を幾千通りの年輪にして刻むデニム生地は、より深くリアルな文化を内包している。でも常に刹那的に価値の変遷するシティにこの文化を理解できるものがいるだろうか。おや、あそこに前衛的な喫茶店があるわ。喫茶ダブルドラゴン? センスが素敵、同じ匂いがする。入ってみよう)

「何見てるの?」
「失礼。良いジーンズ履いてますね」
「リーバイスの新作なの。ディティールが気に入っててね。加工技術の進歩よね」
「ああ…………あー。マンデリンですけど、入荷する予定はありません」
「? なに?」
「いえ」



      おわり

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2話目にしてコーヒー関係なくなりました。

⇒ 1話目