バレンタイン・デーを顧みたとき立ち上がったある感情

ぼくはおこっている。

バレンタイン・デーである。

チョコわたすのわたさないの、

チョコもらうのもらえないの、

で盛り上がったり盛り下がったりしている。

わたすことにドキドキしたり、

もらうことに歓喜したり、

わたせないことで落ち込んだり、

もらえないことで卑屈になったり、

お菓子メーカーの手の平で転がされまいと

この風習に抗ったり、

ただの2月半ばであると明鏡止水の境地でいたり、

いろんな構図が生まれている。

この日だけはチョコが、まるでお金のように、

価値を持ち、流通する。

問題は、

そういうムーブメントを生み出してる

当のチョコ本人には誰がチョコをプレゼントするのか

ということだ。

チョコを渡す。チョコを貰う。

「を」である。

チョコに渡す。や、チョコが貰う。

っていうのはないの?

このままではチョコは、

貰って嬉がることはおろか、

貰えず悲しむことすらできない。

何より辛いのは誰にも意識されないことだ。

誰の渡す対象の選択肢としてすら挙がらないことだ。

選択肢に挙がって、この人には渡さない!

となってもそれはマシなことなのだ。

いっときでも意識されてるのだから。

人のためのチョコはあるのに、

チョコのためのチョコってないのかな。

これには当然、反論もあると思う。

「チョコのこと意識してないっていうけど、

 私はチョコをすごく悩んで選ぶ!」

「チョコにはお金を支払ってるじゃないか!」

とか。

それは確かにそうだと思う。

たしかにチョコのことで悩み、

チョコに対価を支払うのは、

チョコのことを考えてあげていることかもしれない。

でもさ、

チョコに聞いたの!?

本人に確認したの!?

ちゃんと満足してるのかって!

だいたい、結局はチョコを通して

渡す相手のことを見ているに決まってる。

「チョコのため」とは誰も思ってない。

だから誰か、

次のバレンタインは

チョコのためにチョコを買ってはいかがだろう。

チョコとチョコを並べてあげるのだ。

アルミ包装のふとんで添い寝させてあげよう。

ほんと、誰か、

チョコにこういうことしてあげるの、いかがですかね?

ぼくは

そういうのちょっときもちわるいからいいわ……