板っきれの話 ダイエットの話

お酒を飲んだらブログを書こう。

を、スローガンに掲げてすぐ取り下げます。

とりあえず今日は書きます。

短く、さくっと。


“手紙”

手紙というのはいったなんなのだろうか。

素晴らしいものです。

もらうと嬉しいです。

したためるとき気持ちがこもります。

ぼくらデジタルジェネレーションにとって、

便箋と封筒と手書き文字によって構成された

手紙というオブジェクトは、

かなり特別なものです。

パソコンやテレビはどんどん薄型化しています。

iPadなんてもう板っきれですよね。

パソコン並みの機能性を持っている。

世の情報ツールは、

巷のマシーンは、

それが正義ならば際限なく薄く軽くなっていっている。

それでもまだ

それら先進の情報系からくりは、

一通の手紙の性能に勝てないでいる。

一通の手紙の持つ意味の多様さ、

一通の手紙に保存できる情報の量、

一通の手紙から人が得ることのできる

エネルギーの総量、

一通の手紙から伝わる感情の解像度――

データにすれば、

厳密にはいったい何テラバイトになるだろう。

手紙はインターネットのように便利ではないけれど、

個人対個人の通信手段という一個の用途においてならば、

この先、機械で代用できるようになるまで

何年かかるかわからないほどの

圧倒的な性能差がある。

あ、まあ、

この前、お手紙もらう機会があって

嬉しかったってはなしです。

“小説”

小説っておもしろいです。

最高にエキサイティングだ。

中学生のときに小説をはじめて読んだときの

興奮は今でも覚えてます。

1冊を3時間くらいで一気に読んで、

読み終わったときは、

ひとつの物語が終わったことに対して、

言い知れぬ寂しさを覚えた。

内容はハッピーエンドだったけど。

それは、

夢から覚めたような、

遊園地の帰りのような、

そういう感覚。

文字だけで描かれた世界に

没頭するのはかなりの集中力が必要で、

それだけに一度、

その世界に入り込んでしまえば、

他が見えなくなる。

そのときばかりは本の中が現実となる。

ふつう睡眠時のみ訪れる、

全て想像なのに現実としか思えず

疑うことすらできない「夢を見る」という

想像力の最大顕現状態に、

小説を読むという行為によって、

覚醒時にもかかわらず移行することができる。

目が覚めてるときは

周囲の様々な要素に気を配って

意識が散り散りになっていて、

それは脳のふるまいとして仕方のないことだけど、

しかし小説は、分散する意識・想像力を、

連なる活字によって、束ねる。

それで、夢を見ているような感覚に、

覚醒しながら陥ることが可能になる。

その未知の体験。

中学生のころのぼくが興奮しないわけがない。

いまよく読むのはSF小説なんですが、

SF小説のおもしろいところって、

架空のものを現実にあると錯覚させるほどの

詳しさで描いてるところ。

これが未来のテクノロジーやツール

文化のことだけじゃなくって、

これが感覚とかだったりする。

技術の発展によって開発された新たな感覚器官を

通して見た世界、とか。

印象的なのが

『象られた力』(飛 浩隆)という短編集の一編、

「夜と泥の」。

この中で主人公は、

未来の技術で五感の感度を爆発的に高め、

嗅覚や聴覚でものを見る。

現実には感じ得ない感覚だけど、

この小説を読んでいると、

だんだん理解できてくるからすごい。

同じ本に所収の「デュオ」という作品は、

音楽がテーマなのだけど、

ピアノや歌の演奏シーンが圧巻で、

読んだ後、

音楽を実際に耳で聴いたような錯覚をする。

こういうのはたぶん小説ならではないだろうか。

ある景色を描くとき、

目に映る情景を描写するのではなく、

その景色を見た人間の抱く感情のほうを描くことで、

読者に、ならばそれはどんな景色かを想像させる。

五感から入力された情報は全て脳に集まる。

脳に残った情報、

印象としての情報を描くことで、

体の外側のあらゆる情報を描く。

この理屈でいくと、

人の五感を通してみるこの世の森羅万象は、

小説として描くことができるということになりますね。

カレーライスを腹いっぱい食べることの

ノベライズとか誰かしないですかね。

カレーライスを腹いっぱい食べる人の

物語とかじゃなくって、

カレーライスを腹いっぱい食べることそのものの。

小説で満腹中枢刺激して、

素食ダイエットだ!

いや、読むだけ読んで食べないなんて

気がくるいそうだ。

カレー食べたい。

あ、まあ、

カレーライス食べたいってはなしです。