土手という境界線

淀川河川敷_110711

自転車はもしかして

サイクリングをするためにあるのかもしれない。

自転車はもしかして

サドルに跨ってペダルを踏み

ハンドルで操作するのが

正しい使い方なのかもしれない。

これはあくまで可能性だ。

自転車という概念を

我々人類の矮小な意識で知覚するための

かりそめの定義づけだ。

今日、日中天気が良かったので、

ロードバイクでかりそめの定義づけ

してきました。

サイクリングをですね、

してきました。

淀川河川敷。

とても気持ち良かったです。

川沿いの道のもう一本向こうは

クルマがひしめき、

排気とエンジン音とちょっとあらい運転と、

それらの喧騒でなんだか慌ただしい

空気が満ちているのに、

河川敷はとても静かです。

やかましいのは耳をなでる風の音のみ。

急いでいる人もいないし、

緑は鮮やかだし、

川はきらめいてるし、

空は青ぇし、

雲は積乱してるし、

まあなんか、

穏やかです。

RPGで言うと、

街マップとフィールドマップくらいの違いがあります。

距離感もしかり。

クルマがびゅんびゅん走ってる市街とは

緊張感も違うし、

信号の有無もありますしねえ。

いわば、自転車にとっての

高速道路と言えるかもしれません。

スピードを上げて走るという意味ではなく、

スムーズに走れるという意味で。

川の多い都市なら、

目的地へ向かうとき、

川沿いを通るようにしていくと、

快適です。

急ぐときは河川敷でスピードを上げて、

市街地にでたらゆっくり安全運転。

どこかへ行く時の道中が

長く感じるか短く感じるかは、

そのとき感じるストレスの量によると思います。

なので、ストレスを感じない道を知っていれば、

自転車で行こう! と思える距離が

ぐっと伸びて、

まあ何かとよろしいんじゃないでしょうか。

経済的にも健康にも自然にも。

ロードバイクは、自転車は良いものです。

とても効率的なのですよ。

クルマが無いからとか

電車はお金がかかるからとか、

そういう理由で仕方なく乗るものじゃなくって、

あえて選ぶもの。

べつに、

風を感じられるからとか

気になるお店にふらっと立ち寄れるからとか、

そういうことだけじゃなくって、

日常づかいの高速移動手段の中では

いちばん人間の身の丈に合っている

というような気がするのです。

クルマは老若男女だれもが運転するには

馬力と事故ったときの破壊力がありすぎるし。

いや運転なれてる人や、

安全を心掛ける人ならいいんですけど、

いろんな性格の人がひとつの交通ルールのもと、

同じ道路でひしめきあうには、

あまりにもヘビーすぎる、

速く動く鉄のかたまりすぎるのではないかと、

クルマの運転でちょっとだけ痛い目

みたことあるので弱気になってるぼくが言ってます。

すくなくともぼくみたいなのは運転しないほうが良い。

でも運転する資格はあるんだもんねー。

自転車はさ、

人力なぶん多くの人が

自分のからだの延長として感じることができる。

自分のからだが自転車に由来していると

多くの人が感じることができる。

自転車に乗って操縦しやすいように、

遺伝子が今の身体のかたちを作ったということを

信じることができる。

そこに信仰心が生まれ、

リスペクトが生まれ、

愛情と遠慮と畏敬の念を抱くようになり、

自分が、崇めるべき自転車から成り立っているのなら

他者もまた崇めるべき自転車と言え、

そのときお互いへの尊敬と信頼が生まれる。

自転車って、いや熾天者って、

そういう概念なのですねえ。

と、久々にサイクリングしただけのくせに

鬼の首とったように

講釈たれてるのはぼくです\(^o^)/

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