こだわってないッスよ?

こだわりってありますか?

自分だけのこだわり。

これだけは譲れないというこだわり。

誰にも負けないこだわり。

こだわりといえば喫茶店。

喫茶店といえばこだわり。

先日とある喫茶店に行きました。

めちゃめちゃこだわってるんだってさ。

そういう情報とともに

人から教えてもらった店なんですね。

「草原のさかな」的な名前のその喫茶店は、

とにかく珈琲にこだわっていた。

珈琲がうまい。

一杯一杯ハンドドリップで淹れる。

お客が選んだカップに

陶器のドリッパーを乗せ、

自家焙煎の炭焼き珈琲から

じっくりじっくり旨みを引き出す。

おいしかった。

飲んだ瞬間、

おいしいとわかった。

訊くとどうやら、

こだわりは焙煎の仕方だけでなく、

炭火焙煎するのに使う

木炭にまでこだわっているという。

職人の手作業で作られる

一級品の炭を使う。

手作業であるため

毎回焙煎の仕上がりが少しずつ変わるという。

それもまた一興だと言う。

パスタにもこだわっているという。

トーストにもこだわっているという。

きりがない。

店内の調度品も見事だ。

雰囲気がすごい。調和がすごい。

マスターは訊けばいろいろ教えてくれた。

きっと店に関する全てが試行錯誤の果てに

成り立っているものなのだろう。

そういえば。

と思う。

そういえば、また別のこだわりの詰まった喫茶店。

「日々の些事をひととき忘れる」的な名前の喫茶店。

そこも珈琲豆の自家焙煎をしている。

珈琲は一杯一杯ハンドドリップだ。

カップもたくさん揃っている。

調度品、BGM、席から見えるキッチンの様子、

立ち居振る舞い――

やはりこだわりが詰まっている。

カウンター席に座ると

珈琲のドリップが目の前で見られる。

繊細でりきみが無く、優しいその手際に見とれた。

ぼくも自宅で珈琲のハンドドリップをするので、

話を訊いてみた。

理論・理屈・気構えとか。

でもマスターは多くを語ろうとせず、

「珈琲は結果論だから、

 おいしく淹れることができたら

 それがその人にとっての正解です」

って。

「固く考えなくて良いんですよ」

って。

マスターにしてもドリップの様子にしても

店の雰囲気にしても、

しっかりとした計算や研鑽、

思考錯誤の末になりなっているのを感じる。

今に至る過程で自分なりの

理論を築きあげていったことだろう。

でも、そういうことは教えてくれない。

そういうことはダンディな口髭の下に

覆い隠して、

黙ってうまい珈琲を淹れる。

「珈琲は結果論」

こだわりの全ては言葉で伝える必要はなく

こだわりを込めた珈琲豆や珈琲や

調度品やBGMに代弁させれば良い、

ということだろうか。

お客さんが感じ取ったそれがそのまま

言葉のいらない説明になると。

あとからあとからこのマスターの言葉の意味が

重くなっていく。

かっこいいなー。

まあ、こだわり。

別に前者の

いろいろ教えてくれるマスターが

野暮だという話ではない。

訊かれて答えてるんだから。

ともあれ、

こだわりっていうのは

胸のうちに秘めておいて、

それを込めたものに語らせるのが

かっこいいと思うんだ。

何かをしようと思ったとき、

それが人に見せたり

振る舞ったりするものであるとき、

やっぱりどこかひとつは

誰にも負けないっていうこだわりがあると

良いよね。

そこに関してだけは

飽くなき研究と試行錯誤を

繰り返してきたという自負を

持っていたいよね。

どうせなら自信をもって

そのものを送りだしたいから。

でも、相手にはそのこだわりは教えない。

あえて教えない。

謙遜とか馬鹿のふりとかではない。

秘密にするのでもない。

実際はめちゃめちゃオープンなのだ。

そのものを見れば感じれば味わえば、

いっぱつでわかるようになっているのだ。

そのようにこだわりを詰め込むのだ。

何気なくやってるようだけど

実はめちゃめちゃこだわってますよー、

でも知らんぷりしますよー。

そういうふうにするのだ。

こだわりとは

言葉を尽くして説明するものではないのだ。

っていうぼくのこだわり、

どーよ!?